佐藤 大史『Alaska Travel Diary』前編

2020.11.04 Update

 

 2019年11月末、いくつかの目的を持って、アラスカへと向かった。いつもより短い3週間の遠征であるにもかかわらず、機内にいる間からずっと緊張感が消えなかった。アラスカ自体は2015年から毎年、1年のうち3~4ヶ月ほど遠征しており、大概のリスクは事前に対応できるのだが、真冬の遠征は2度目となるため機材と装備に不足がないかの懸念が払拭できずにいたのだ。というのも、12月のアラスカともなれば、私のメインフィールドである山脈の中はマイナス30度を下回る。雪深いその中を50キロ近い装備を持って歩きながら撮影するとき、装備や機材に不足があってはせっかくの遠征をまるっと無駄足にしてしまうかもしれないのだ。それどころか、命の危険もある。

 

 

 11月26日、成田を出てシアトルで乗り継ぎ、フェアバンクスについたのが深夜1時頃。空港の外にでると、頬を撫でる風は緩やかだったが、ひどく冷たく乾燥していて切れるかのようだった。一度めの呼吸で鼻毛が凍りつくのがわかった。道路の気温表記は-3°F。「マイナス20度くらいか。」華氏の気温を摂氏に計算してそう呟いた。さほどの雪はなかったが、足元の路面は凍っていた。

 

 

 

 空港で友人に拾ってもらい、友人宅に止めてもらっていたマイカー(自分でも何が置いてあったか思い出せないくらい荷物が詰まっているボロボロのFord)の前で、荷物を整理した。これが楽しくも大変な時間。撮影に入る期間やエリア、季節によって、装備が細かく変わってくるからだ。一つ忘れ物をすれば後で大変な思いをする。

 

 カメラ機材は使い慣れていて耐久性のあるOLYMPUSで固め、ギアは日本製・アメリカ製など様々だが、今回の目玉はなんと言っても防寒具。特に、生き物やオーロラを待機している時など、体を動かしていない時の防寒対策がキモだった。自分にとって新しい装備であるFoxfireの耐極寒クロージングギア、オーロラジャケットオーロラパンツは持ったが、「実際にトライしなきゃ使えるか分からんな」そう思いつつザックに詰め、短いスケジュールに追われるように山脈の方へと車を走らせた。

 

 

 

 

 

 

 途中、抗いようのない眠気にやられ運転席で2時間寝たりしつつ、山の入り口に着いたのが20時だった。この日は装備テストも兼ね、一晩山の上で過ごすことに決めていたので、ザックを背負い、雪深い山道を登る。うっすらとした月明かりが雪面に反射していて、ヘッドライトはつけなくてもなんとか登れた。

体が暖まってくるとテンションが上がり、カモシカになったかのような気分で一気に標高を上げる。風もあるせいか、あまり汗はかかなかった。オーロラジャケットのアウターを羽織っていたが、登山の動きを妨げることはなく快適だったこともよかった。そのうち暑くなり途中でアウターは脱いだ。頬が凍傷にならないようにフェイスガードをつけたり外したりしながら、24時前には稜線についた。カメラを三脚に据え、オーロラの出現を待つ体勢に入った。

 

 

 

 5分も経たずに真っ先に冷えたのは意外にも太ももだった。すぐにオーロラパンツを履いた。細かい作業をしようと手袋から手を出すと、一気に恐怖心が吹き出すくらい冷たく、指先に痛みが走った。インナーグローブの上にオーロラグラブ(販売終了)をし、体の中心を温めると気持ちが落ち着くので、オーロラジャケットも再び着用した。大事をとってカイロも胸元にはり、結局朝4時過ぎまでその格好のまま撮影を続けた。

実のところ、オーロラはこの夜出てくれなかったが、私は確かな手応えと希望を感じていた。「冬のアラスカの撮影もなんとかなるぞ」と。日本を出国した頃から付き纏っていた不安感は、オーロラジャケット&パンツがもたらす安心感で、いつの間にか払拭されたようだ。すっかり撮影に集中できるポジティブ気分となり、「明日はどの森から、どの山に入ろうか?」と撮影の具体的な行程も頭の中で考えながら下山の足を進めていた。

 

 

 

 車に戻ったのは、朝7時ころだった。運転席に乗り込み、エンジンをかけた。表示には、外気温-29°Fと出ていた。摂氏にするとマイナス34度くらいだ。通りで寒かったわけだ。地図を開き、撮影にむいていそうなエリアや、徒歩でアプローチしやすそうな尾根や谷筋がないかを考えていると、いつの間にか眠りに落ちていた。

お昼に起き出し、昨日スーパーで買ったベーグルをかじった。アメリカのスーパーで売っている食パンは食べられたものではないが、ベーグルは美味い。本当はホットミルクを飲みたいところだが、ポットに入ったお湯を飲んで一息入れた後、昨夜途中まで検討した撮影エリアを考える。オーロラ、ムース、リス、ウサギ、オオカミ、どこに入ればどんなシーンに出会えるだろうか。しばらく考えたのち、今持っている装備、バッテリー、食材、残存体力を考慮し、行き先を決めた。

 

 

 

 まずは車を移動させる。しばらく置いておいても平気そうな場所に止め、車をみた人が心配をかけないように1週間~10日ほどで戻る旨をメモに書き、運転席と助手席の窓に貼った。そして、約10日分の装備をザックに詰め込み、ソリに載せる。重さは40キロ程度。ソリに結んだロープの先にカラビナをつけ、両肩にかけたスリングの背中部分に輪っかを作り、カラビナをひっかける。

よし、歩き始めるかーと空を見上げると、雪は降っていないが、曇っていた。「ま、晴れるよりいいかな。」そう思った。アラスカの内陸性の気候では、晴れた時の方が最低気温はグッと下がり、曇っている方が高くなる。ピーカンになってマイナス30度を下回ってしまうと、少し肌が露出していると凍傷になってしまうし、オーバーワークして汗をかくことが命取りになる。曇ってはいたが、上半身はなるべく薄着にしたが、指先は冷やさないようビニールグローブの上にパッチワークフリースグラブをつけて歩き出した。

 

 

 

 しばらく歩いているとすぐに暗くなった。この時期、日照時間は6時間程度しかない。だが、あと2日間は冬季閉鎖されている道路上を歩くので道に迷う心配はないし、この時期クマは冬眠していることもあって、日が暮れることは不安要素にはならなかった。それより難しいのはやはり体温調節だ。汗をかかないように、と思っていても、背中にはじっとりと汗をかくので、休憩を取って10秒も経つと背中が冷えてくる。

「これだけの荷物があるとゆっくり歩いていても汗はかいてしまうし、かと言ってこれ以上薄着にしたら直接外気に触れる部分が出て凍傷になるしなあ、ううむどうしよう」などと考えながらロープの結びを解いて、位置を変え結び直した。そしてふとしたことに気づいた。それは、指先がいつも通り柔らかく動く、ということだった。恐らくグローブの手首部分にファーが付いていて、手首まで包んでいるおかげだろう。焦ったりパニックになると人のパフォーマンスは大きく減退するが、自分に合った装備をすれば、いつも通りの自分が保てることに改めて気づき、装備に感謝した瞬間だった。

 

 

 

 気温が低すぎないおかげもあって、背中にかく汗がクリティカルなダメージにならないことを確信し、その後も10秒に満たない休憩を重ねながら歩いた。途中まではスレッドドッグたちが走った後が残っていたが、ある地点からはなくなり、30cmほどの雪をラッセルして進んだ。新雪の上ではソリが進まなくてイライラしたが、背負うよりましだった。はいているパンツがギュギュウっと擦れる低い音が聞こえると、何かの生き物の喉を鳴らす音に聞こえて不気味だった。自分の呼吸と、装備の擦れる音だけを聞きながら歩いていると、いつの間にか大粒の雪がしんしんと降っていた。ヘッドライトの光がそれに反射して綺麗だ。

体温調節のため帽子をつけたり外したりしていたが、外しているときに頭に雪が積もって自分の熱で溶け、その後に氷になっていく様子が面白かった。ずっと放っておくと氷柱のようにすらなる。話は少し脱線するが、写真展や講演などで「撮影地まで何日もかけて歩いている」という話をすると、「その時何を考えて歩くんですか?」とよく聞かれる。意外と歩いている間も色々考えることがあり、なんとも答えづらい。撮影のことや生き物との邂逅のイメージをして戦略を立てることもあるし、原稿を考えたり、帰国がちかければ帰ったら寿司を食べようとかベーグルベーグルに行こうとか、次ネット環境に戻ったらあの人のメールに返事しなきゃとか、日本にあるマイカーのガソリンってどんくらい残ってたっけ?なんて意味のないことを考えることもある。

 

 

 

 

後編へ続く

 

 

 

 

写真家

佐藤 大史 | Daishi Sato

 

1985年生まれ。長野県安曇野市在住。日本大学芸術学部写真学科卒業後、写真家白川義員の助手を務め、2013年独立。「地球を感じてもらう」ことをコンセプトに、主にアラスカなどの手つかずの大自然を舞台に撮影している。2020年に初の作品集『Belong』(信濃毎日新聞社)を出版。
<WEBサイト> Daishi Sato Official Site